あくたばろぐ

作者の人格と作品を分けて考えられないひとは見ない方がいいです。

設定とか

気分がのらないので、見る分にはどうでもいいけど結局そういうサガが作用してつくりこんでいってしまっている世界観設定の部分のことをちまちましゃべろうと思います。

 

曲擬のお話である「現代曲擬史極東篇」の舞台は現代日本です。

ただ、1868年に天変地異があり、大きく変異してしまった日本の話なので、ほぼファンタジーです。

1868年の天変地異のことを“黒雨災”と人々は呼んでいます。

これは天から黒い雨と物体が輝きながらが日本近海の太平洋に降り注ぎ、周囲の生き物を死滅させ、伝染病をまき散らし未曽有の大災害となったもので、全世界で甚大な被害をもたらすことになってしまったものです。

このときの日本では伝染病で人がたくさん死んで、食料も激減し飢餓に陥りましたが、少ない人間でなんとかやっていくために科学技術や医療が大幅に発達することになります。

黒い雨とともに降ってきた物体は海底にとどまり、海底遺跡と俗称されるようになります。それを調査する調査団も編成され、調査団はその遺跡から“書物”を発見するのです。海底から発見されたにもかかわらず、完全な形をとる“書物”です。この書物が発見されるのが、1912年のことでありました。

この書物の研究のために専用の研究チームが組まれます。その研究員のひとりが、書物に書かれている設計図によって出来上がる“願望機”によって、自らを魔王と転じさせることに成功します。

魔王となった彼はこの書物を“聖典”と呼び、自らの城を構え、隔絶された領域を日本国内に作り上げ、あらゆる干渉を拒み、聖典研究に没頭します。そこでこの聖典に書かれている内容には続きがある、ということを発見します。

魔王は魔物を使役し、聖典の続きを捜索させました。

そして魔王の手元に確かに続きとなる二つ目の聖典が現れますが、この最初の聖典と二冊目の聖典には明らかに間があることもわかります。

魔王はさらに魔物を増やして聖典を捜索させます。

すると人目につくようになってしまった魔物たちは、勇者を名乗る者たちに次々と倒されて行ってしまうのです。

魔物たちが人間を襲うことはありませんでしたが、その醜態はまさしく魔、そのものだったからです。

魔物が聖典を探していることを知った勇者たちも聖典を探すことになります。聖典の存在自体は、魔王が魔王となったきっかけの一冊目のときに公表されており、不思議な力を持つことがわかっていました。

こうして魔王と勇者の構図は完成し、紆余曲折の結果、魔王は二代目となったものの、すべての聖典を手中に収めました。

聖典は全部で八冊。八冊を通じて何らかの物語が起こり、八冊目で完結しています。

最初にあった一冊目である第一聖典と、次に見つかった二冊目である第八聖典を魔王が、残りの六冊を生き残った家臣それぞれがその血脈で代々受け継ぎ守っていきました。

魔王はそれから姿をくらまし、魔王の城はごくわずかな魔物のすみかとしてのこり、家臣たちはそれぞれの道を歩みます。魔王や聖典の存在が国にも認知されており、聖典をもつこれら家臣たち六家は国からの厳重な保護監視下におかれ、六家を総じて聖典六家と呼称するようになります。

 

……とこれで半分ぐらいです。聖典にはそれぞれ一冊ごとに異なる力が使えることをかくのを忘れていました。

 

さて、この聖典が魔王のもとに集い、分かたれたのが1939年のことです。

魔王と勇者が聖典争いをしている間にも、遺跡の研究や黒雨災からの復興は続いていました。

伝染病はどんどん沈静化し、ほぼ完全復興と思われる1964年、大阪では大阪六拠崩壊事変とされる出来事がおこるのでありました。

この事変を機に、人々は“怪異”なる脅威にさらされることになります。

“怪異”は黒雨災起源の伝染病のひとつであった“狂人病”のフェーズが患者が死ぬことなくさらに進行した末期症状、とされていて、事変が起こるまでは体が変形し異形と化したのちに死亡していたものが、事変以降は異形と化してからも生き延び、患者がなにか生き物を殺せば沈静化し体の変形も収まる、そのため狂人病患者は一度変形の発作を起こしてしまうと生き物を殺さずにはいられない状態となってしまう……といったもので、通常の狂人病は徐々に狂人病の症状が現れていたのに対して“怪異”とされるケースは狂人病の症状がないにもかかわらず、突然あるいは何かのきっかけで変形発作を起こし、大半の場合殺人に至る。

そしてこれが日本国内すべての人間に起こりうる状態となってしまったわけであります。

一度発作を起こし怪異となってしまったものは、治療することは不可能とされ、再度の発作とそれに連なる殺傷を防ぐため、怪異は討伐の運命を余儀なくされます。

その怪異を討伐するために作られたのが、曲擬たちなのです。

 

ふう……

 

1988年、曲擬を製作する機関である“聖典擬物共同連合八十八機関”が、石廊崎澄皐、芦港三澄の二名が中核となり聖典六家共同で発足され、同年内に一体目の曲擬も製造されました。 

曲擬たちはこれまでに培われた様々な技術と先述した聖典の力によって造られます。

パーツがそげても、普通の人間なら死ぬ傷でも、いやもし死んでしまっても、修復すれば、あるいは作り直せばまた戦わせることができます。さらに聖典の力に寄って造られた曲擬たちの使う多くの能力は怪異に大変有効で、たくさんの人間を殺めて強力な個体となった怪異をも駆除することが可能なのです。すごい。

 

……おや、なにか気になることでもおありでしょうか。

この話のほとんどの部分を曲擬たちは知りません。彼らは日々幸せに過ごし、時々人前にでて仕事をし、時々怪異を倒しに戦いに出かけます。怪異のことは人が転じてなるもの、ぐらいしか知りません。聖典のことは、自分たちがこれによって造られているということ以外、これっぽっちも知りません。六家のことも、機関とゆかりのあるひと、家、という風にしか知りません。機関のことは、自分たちを作って仕事をさせて生かしているところ、という認識です。

曲擬たちが知らないことは、曲擬を見る人も知らなくてもいいようにしているつもりですが、設定、つくっちゃったので、せっかくだし、出しました。

詳細を省いた魔王の話とか、大阪のはなしもちょっとずつ考えています。またのちのち。

では今回はこのへんで。